2017年4月30日日曜日

弥生人にはまだなれない

先週の土曜日、まちにまったマテ貝とり。
小学生から大学入って半分すぎるまで、私はシジミを除いて「貝が嫌い/食べられない」ということにしていた。だが、大學堂でいつだったかきのこが3月の節句の時期に作ったはまぐりのお吸い物、それに去年か2年前かの「究極の佃煮」によって、私はあっさりと「貝が嫌い」ということをやめた。
究極の佃煮は、美味しすぎた。今年はあれを自分で作りたい。

ベストタイムに間に合うように早く行きたいと浮き足立つも、当日私は大學堂だった。
2階では今村監督を招いたたんたんマルシェが行われていた。前日の映画上映の効果もあり、20人近い参加者が和気あいあいと楽しんでいる様子であった。
たんまる後に監督とお茶でもしながらゆっくり話せるかと思っていたが、実際はそんな時間がなく残念。

たんたんマルシェを終えた後、何度も時計を見ながら「早く、早く」とロケーションへ向かう。企業の工場や海運・輸送系の白くて大きな建物が並ぶあの辺り、普段はおそらくがらんとした道路があるだけなのだろう。しかし、この時期は一変、干潟に近づくにつれ、まるで真夏の海水浴場のように路肩、中央分離帯に該当する場所にこれでもかと車が並んでいる。これ全部が潮干狩りの人かと思うと、出遅れたとわかっていてもさらに焦りが募る。

縦列駐車にほんの一瞬ためらいをみせるきぞくだったが、大きくあいたスキマにデミオを滑り込ませる。すぐに取り出せる場所に水とタオルを準備し、いざ降りようとすると子連れの親子が「あー、満足、満足」といった様子で戻ってくる。ちらりと見られる視線がいたい。そうです、私たち今からですけどそれでも貝が欲しいんです。だれよりも大きなヴァケーションバックとギョサンとサングラスですけど、最後の最後までやりきりたいんです。


毎回来てみて思うが、干潟って広い。いぼりやモコの場所を聞くのもばからしく感じる。
とにかく掘るぞ!と、中間辺り、潮がひいてすぐ辺りを狙って穴に塩を入れていく。
ポコポコ水が湧いてくるものの、全然とれない。「きぞく〜、とれないよ〜」
ときぞくに泣きついてみるも、きぞくは割と冷たい。獲れたとも撮れないとも言わず黙々とあちこち掘り返している。チラとヴァケーション用のかごバックを覗くと、なんと!それなりに獲ってるじゃん!!

なんでこんなにとれないんだ、前はこんなにボウズじゃなかった、と絶望的になる。理由が全然わからないまま掘り続けていると、毎年絶対目にする「明らかプロフェッショナルのおじさん」にとうとう声をかけられる。

「あー、あんたなんかクワみたいなもん持っとらんの、あーそのちりとり(きぞくの)でもいいや」

盲点!ではなく、単なる準備不足!塩と同じくらい大切なものを、忘れていた!
干潟から上がった時に使う真水は用意していたのに、まさかの「砂を平に削ることができるなにか」を持って来ていなかった。戦わずして負けた。もう何もできない。

おじさんにやって見せてもらって、ようやく正しいやり方思い出した。
その後はきぞくの掘りを横目でみながら、あいている時だけ一瞬ちりとりを借り、その一瞬でひたすら砂を削りまくり作業をする、というやり方が続いた。

確かに、確実に獲れるようになった。
しかし、どうみても小さすぎる。子どもサイズとかではなく、もはや赤ちゃんサイズばかりとれる。たまに中ぐらいのが飛び出すと、思わず声をあげてしまうくらい嬉しい。
おそらく、このあたりは既に人が獲り尽くしており、そういう人が見捨てて、いや情けで残して行った赤ちゃんしかいなかったのだろう。そんなところで、無慈悲に赤ちゃんばっかりを採集するわたし。

6時頃だっただろうか。
もこから連絡が入り、合流することに。運良く視界に入り認識可能な範囲に彼らはいた。
「こっちヤバいよ、超ホットスポットがある!」
「え、なにそれ!?超ホットスポット?どこどこそれ!」
すぐ近くで「え〜、これ何とかじゃなーい?」とかいいながら掘ってるヒョウ柄ジャージのお姉さんと銀縁メガネのおじさんカップルを全く気にせず、その人たちも絶対気になるようなことを大声で口走ってしまう。しまった、こんなこと絶対大声でいうべきじゃなかった。

そそくさとその場を立ち去り、みんなと合流。とにもかくにも漁量チェック。
すると、その差は歴然。

ピンク、白バケツがいぼもこ、カノハン4人の獲れ高。
水色が、私一人の獲れ高。

まず、貝の大きさが全然違う。大人と赤ちゃん、とかいうレベルではない。
明らかに赤ちゃんと筋骨隆々の男の人との戦いだ。しかも、量も多い。大すぎ。
私のバケツを見て、いぼりやモコ、そして特にハンゾーは大爆笑。
この中の誰よりもバケツが大きかったのも効いたようだ。ああ、切ない。
これは皆に貝をミンタ(懇願)しなければ、と思った。

私ときぞくはそのままホットスポットでもう少し獲りたかったが、自転車組と相談し夜はみんなでパスタを作って食べることに。そこで採集は終了ということになった。

来月のリベンジを誓い、大学へ戻り調理をする。
春菊と紫蘇がさっぱりとした風味のマテ貝パスタはとてもおいしくもりもり食べた。
残りを皆となぜかゼミ室にいたビンビンと山分けして持ち帰る。
ここからが本当のわくわくタイムだ。

野研報告アーカイブから、ヒミツのレシピを探し出す。
白ワインはなかったので、酒で代用。最後まで煮詰めてできたのは、照り輝く「究極の佃煮」殻をはずすと、本当にわずかな量しかとれなかったが、まずは一口。

それがまた、おいしすぎた。
今も、思わず唾液をごくり、と飲み込んでしまった。
柔らかな食感に、じわじわしみ出すうまみ、うまみ、うまみ。
噛めば噛むほど出てくる、旨味。
もう旨味を感じることしかできず、一人キッチンで恍惚とした。ああ、おいしい。

これは食べだすと止まらない、と思い、その日は1本だけ食して翌日にとっておいた。
本当なら、少しずつ、もしくは行けなかった人たちとシェアして食べるのも良いと思っていた。しかし、翌日、一度口にしたらもう箸が止まらなかった。あっという間に全部たべきってしまった。もったいなかったので、赤ちゃんも含めて全部1本ずつ食べたのに。

ということなので、究極の旨味を味わいたい人は、来月絶対に行くべきだと思うよ。
潮干狩り。あともう1回くらいしかできないというのが本当にかなしいが。(てらす)


新緑のころの風物詩

今年度初の潮干狩り。
天気は抜群,絶好の日和。
いぼり,はんぞー,カノープス(改めカルピス?)とサイクリング兼ね苅田へ。
1時間強で着。
いつも行く平日午後はベテランおじおばが目立つけど,
GWとだけあって子連れが大挙。


黙々と掘るカノープス。
飽きの早いはんぞー。
大物を逃し悔しいぼり。


去年はハズレだったが今年はアタリ。
粒が大きくて,数も多い。
ばか貝との遭遇率も高し。

帰る間際にマテガイホットスポットを発見。きゃっぴー。
帰る足が遠のく...


次のチャンスは5月下旬。

シネマはきたがた 学生はしたたか

結局一睡もすることなく大都会東京に足を踏み入れた昨日。
ポールはとても素敵でした。

一昨日は案の定バタバタして、すべき事を把握しきれていない部分が多々あり、King of CHICKEN決定戦並、とまでは言わないが、なんともしこりの残った日だった。

が、やはりいざ映画が始まってみると、物凄い高揚感を覚えた。というのも、とてつもなく大きなスケールの出来事に微力ながらではあるが、送り手として参加しているという実感にとても胸踊らされたのである。

もちろん2度目のStart Lineの鑑賞も、試写会の際の裏話を踏まえて、より一層楽しめた。

あと、ベンチでウィルが監督の肩に手をやる所は何度見ても泣きそうになる。というか泣いちゃう。


満席には到底及ばなかったのは無念だが、それよりも学生があまりにも少なかったのがいと口惜し。
まだまだシネマの存在が知られてない様に感じたのは私だけでしょうか。

一応も二応も工夫せねば。


それともう先週のことだけれど
柳川でのことを少し。

朝8時半にもこのモーニングコールにて起床後、急いで支度してあるぱか車に飛び乗るや、気付けば車内はj.k ローリングもびっくりの不思議な空間が。中二は凄い!

きぞくかーよりも先に出た甲斐あって、柳川水族館を観光。とっても楽しかったなぁ

休館だったけれど。


兎にも角にも、一家に1足の謳い文句で有名な魚サンを購入できたので満足。魚サンで毎日過ごしたいほど履き心地がよい。

その後皆と合流し、たまみず、櫨蝋、そしてくもで網へ。
くもで網はるるぶに全て持ってかれた感があるので、今後何かで挽回したいところ。



他にもフォント、看板、超かっこいい歯車とTOYOTA。あと半蔵。











2017年4月27日木曜日

鯨ウィークエン ド

1週間前の今日、「#Odoru #Hanzo」をやったとはとても信じられない時間の進みの速さです。いったいどのイベントがどの日どのタイミングであったのかわからないので、一度整理してみましょう。

4月20日 木曜 オドルハンゾー、坂巻さんがやってくる
4月21日 金曜 劇団すずめのす、ギョサン、水玉見学、櫨ろう、くもで網、ギョサンデビュー、かしらのみつばち、エビのかき揚げ、宴会
4月22日 土曜 鹿島のかっこいい集落と映画監督、酒蔵、波佐見、タバの棚田、講演と鯨飲鯨食、カナディアンログと鯨飲鯨食本番
4月23日 日曜 朝釣り、撮影会、道の駅、かんころ餅、放牧豚丼、島の館、漁師宿、テント泊
4月24日 月曜 西の果て、崖山の上、川内峠、時速130キロで平戸を抜け若宮へ、BBQ
4月25日 火曜 みつばち分封、オルガン運び、宴会
4月26日 水曜 坂巻さん帰る、ハンデル先生の白熱講義、ちきちきチキンライス
4月27日 木曜 「今日」

いろいろ詰まりすぎ。1日ずつ追っていきます。

4月21日 金曜日
あるぱかーにてまずは柳川を目指します。車中ではまさかの中2男子による劇団「すずめのす」監修・制作ラジオドラマを聞くことに。地球上の水が汚染され、男で一人生き残った主人公、人間の魂をとるはずが誤って天国から地獄まですべての人や閻魔様を殺してしまい、一人になってしまった主人公、老婆ドラキュラが散々人を食べまくった挙句まさかの広島出身の普通の女の子だった話、などなど1シーンで一人は登場人物が死んでいくお話ばかりでした。車に乗ってラジオドラマ聞いていただけなのに、目的地に着いた時は皆なぜかへとへとに。

以前、環境社会学会と合わせて魚部の「エツ食べ」に行った時と同じ場所にいきます。前回は目に止めなかったけど、道端の履物屋の店先にギョサンが売っているのを発見。今時ネットで高くなってしまった便所スリッパみたいなサンダルですが、海や川などの水場では大活躍です。豊富なカラーに心躍らせるも、それはすべて子供用。大人用は「濃い赤茶色」「黄土色」の2色。よりによってこんなトイレカラーかと悩みながらも濃い茶色を購入。今年の夏に履き倒します。

その後かしらや後続きぞくかー、キウイかーに合流。いつもおいしく飲ませてもらっている水玉酒造と、櫨ろうの工場見学。いぼりも言っていた「ねずみの小判」、実家の庭によく落ちていました。これが櫨の種なのか。

近所の子供の中では「バクダン」って言って投げ合っていた。

 溶かした櫨ろうを入れて固めるための丼。整然と並ぶ。

 酒造と櫨ろう見学を終えると、本日目玉のくもで網体験。干潟には竹で編まれたやぐらが建てられており、それぞれ網の部分が水につけてある。この網は滑車を2つ挟んでロープで手元につながっており、人力で紐をひくことで網の上に泳ぐ魚やエビをすくい上げる。


よくとれるのはエビやエツ。うなぎやエイもとれる。3日前にもうなぎがとれたらしく、我々はうなぎを狙ってひたすら網を上げ下げ。一度、白魚のような綺麗な小魚がとれたが食いしん坊いぼりにあっという間に飲み込まれる。



水につけてすぐあげてみたり、十分時間をとってあげてみたり。網のすぐそばで魚が跳ねると歓声があがった。


今までエツというものは「幻の魚」だと聞いていたのに、今回は大小含めて結構とれた。
かしたのお母さんがお刺身にしてくださり、夜皆でいただく。エビはひたすらかき揚げにした。この時のエビは、後日テント泊した日の翌朝の朝食まで引っ張っていくことになる。

4月22日 土曜日
お世話になったかしらにお礼を告げ、次の目的地へ。佐賀県南部、鹿島市というところにある古い集落。映画監督だというおじいさんも加わり、大所帯で路地を散策。乗田家住宅という、修繕された大きな茅葺のおうちがとても綺麗で迫力があった。松江にある私の祖母の実家もこのような家で、茅葺ではないものの土間から上を見上げると、太い木のはりが見える。地域の中に残る古い建物の一つとして地元の高校生などが見学しにきたりすると聞いていたが、先日訪れると現当主の意向で玄関が少しリフォームされていた。あの家も、そのままの形でもう少し残されていれば、こういったスポットになったかもしれないなあとぼんやり考えた。


2階の手すりが素敵である。 

 天皇陛下ご愛用のジョウロを作っている金物屋の方の工房。

こういう家というか工房というか、どこかで見たことあるよね。 

集落散策が終わると、通り道でもあったことだし波佐見で昼休憩。数年前のGWの陶器市の際にも訪れた場所だったが、飲食店や雑貨屋がさらに加わり、若い女性やランチを求めるマダムで結構混んでいた。

そんなおしゃれカフェでの昼食。良心的な値段だなぁとか話していたけど、実物みて納得。いぼりに言わせると「あぁ、あの料理がきてみて驚くやつね」

タバにも会えるかと思っていたが、結局会えず。鬼木の棚田を見て鯨飲鯨食へ。 

鯨の講演会は、下関鯨類研究所の石川さんという方によるもの。これまでの鯨との付き合いから捕鯨の近代史について、時系列や事後関係を丁寧に解説してくださり、とてもわかりやすかった。鯨について学ぶ際の敷居が一気に低くなった思いがした。

湯かけ鯨の酢物
塩鯨の煮しめ
鯨の竹燻し
塩鯨と切り干し大根、とくじら尽くしの夕食。


鯨飲鯨食の後はテント泊だと思っていたのに、まさかのおよばれをいただき両者整形外科をされているご夫婦の家に泊まらせていただくことに。「辺鄙なところすぎて住所がない」という言葉に、灯りのない山道をぐねぐね進み不安になるも、着いてみればなんとバラのアーチとエゾシカの剥製が玄関でお迎えをする、立派なログハウス。木材はカナダから輸入したものらしい。

ご夫婦のうち、奥さんは長い間カヌーをしておられ、また釣りが好きなご主人とあって家族で週末キャンプをするのも好きだったそう。家の車もカヌーが上に積めるものをわざわざ購入し、いろいろなところへ行かれていたらしい。しかしそのうちに、5メートル近くのカヌーを毎度毎度家から車、車から海まで運ぶのがおっくうになり、「カヌーをおいておく場所」としてこの地を購入。始めはこの地にログハウスなどはなく、長崎にある家からここにやってきて、週末キャンプをしていた。そこから夢は膨らみ、現在のログハウスができることとなった。

おうちが素敵すぎて楽しくなってきたもこ。

鯨飲鯨食から帰ったばかりであったが、ひとまずウェルカムシャンパンをいただく。キッチンの一角にグラスが何十個もおいてあるのを見て、なんとなくこの家の過ごし方を悟るわたしたち。それからあれよあれよという間にボトルワインが4本あき、12時近いことだしそろそろお開きかと思いきや。「本当は、私のイチバンはこれなの」と奥さんがどーんと取り出したのは「元老院」一升ボトル。「ああっ、これ鹿児島で見た!」という声とともに始まる2次会か3次会か…。日本酒に、最近食べた中で一番美味しかったというとっておきのえび入りキムチ、朝ごはんにと買ってきたおにぎりに手作りマヨネーズ、スイスのチョコレート…。どんどん予想もしてなかった方向に話が転がっていき、面白くて仕方がなかった。何時に寝たのか定かではないが、ご主人は毎朝4時半には目の前の海で朝釣りをするという。それを絶対に見ようと心に誓い、眠りについた。


4月23日 日曜日
翌朝。皆が眠る中ひとりこそこそ起き出し、外へ向かう。
ちょうど朝日が登ってくる中、ご主人は釣りをされていた。「フグばかり釣れる」とぼやきながらも、小ぶりのキスが何匹か釣れていた。夫婦二人しかいないので、毎朝少しとれれば十分だという。


こんなおうち。「別荘」ではなく「基地」と呼んで欲しいらしい。

ご夫婦とわかれてからは鯨ツアー再開。
花屋が隣接する石屋さんの中はカフェスペースになっており、放牧で育てられている豚肉を使った料理を出している。

梅干しとか柑橘漬けに、枚数あるフリーペーパー。
大學堂と同じものがおいてあるはずなのに、このすっきりおしゃれ感はなんだろう。
どこが違うのだろうか。

放牧豚丼。肉の赤身部分が、少し魚の赤身のような味がして「ん?」と思ったけど、どうなのだろう。ほうれん草と春菊のとろとろスープは柔らかいくちどけでおなかにしみた。実は、まだこの時前夜のお酒が抜けきっていなくてあまり味を覚えていない。


 生月、島の館。古式捕鯨から近代捕鯨、鯨の利用や捕獲の仕方など鯨と捕鯨にまつわる展示が充実していた。時間がなく、全体的に早足だったのがとても残念。昔の人が、主にどこで、どのように鯨と駆け引きをして漁をし、とれた身をどう使い、どう鯨と付き合っていたのかが詳細に説明されている。2階には生月の昔の暮らし(農業、漁業、祭)や海の生き物の剥製展示、隠れキリシタンに関する展示もあり、全然回りきれない。もう一度行きたい。
間違いかと思ったが、調べてみるとクモガニの一種でハリセンボンというものがいた。

4月24日 月曜日
テント泊をした翌日。夕方の若宮に帰るギリギリまで、いろいろなところを回る。「ここまで来たのだから」と日本の最西端だという港、宮之浦を見に行く。クリアな水に穏やかな波。アルパカは「あーなんでシュノーケル持ってこなかったんだろう」と猛烈に後悔。夏はもうすぐそこ。



坂巻さんに教えてもらった、ムクロジの実。中の黒い種は羽子板のハネにつかわれる。
果実の部分は、乾燥させてひき、粉にすると石鹸になるという。

ユウレイクサ。ギンリョウソウという、菌で繁殖する花。

志々伎山(357メートルくらい)という霊山にも登った。見る方向により違った形に見え、海から交易のためにやってきた人々の目印になっていたという。登山口の駐車場で、彫刻家の坂本さんに再会。今朝、別れ際に「山に登る」と言われていたが、我々が日本最西端に行っている間にすでに登ってきたらしい。「片道45分」という言葉と、登山にわくわくして「行こうよ」を繰り返す坂巻さんに押され、せっかくだからと山登り。しかし、これがまた険しい山で、ロープを掴みながら岩肌を登るような登山だった。頂上に近くにつれ、海の青と空の青、ひたすら青に囲まれる。とても綺麗だった。

ビンビンも、綺麗な写真をとるために意地でも上がる。

坂巻さんが座っているところが崖すぎる。

サラワクの森、山は緑鮮やか、原色の動植物が多く生き生きとしているが、こうして見ると日本の山にだって色がある。森林組合の赤松さんに会って、日本中にはびこる竹の話を聞いてから山を見るたび竹チェックをしてしまうようになったのだが、ここには竹はなかった。何種類もの木が異なった色づきを見せており、日本の山だって綺麗じゃん、と思ったのであった。

高山地帯に生息するというアルパカを発見。


鯨飲鯨食の一週間

初めての受け持った講義がフィールドワーク論で、運のいい?ことに同じ春から北方シネマが始まった。ドキュメンタリー映画はフィールドワークの授業にはもってこいの題材だと思う。おかげで、フィールドワークについて自分の考えをまとめるいい機会となっている。
今回の鯨飲鯨食ツアーは野研で行くフィールドワークの中では比較的予定の定められたものだったと思う(ツアーだし)。とはいえ、社会科見学や本物の旅行ツアーに比べれば全く臨機応変さが違う。ある程度の方針を持ちながらも、やっぱりフィールドワークはアンテナを伸ばし可変的でなければ面白くない。計画と無計画の間?野研にきてから当たり前の「やり方」になってしまっていたけど、改めてそれがなんなのか考えている。以下、遅くなりましたが報告です。

柳川からカシラキゾクキウイカーと合流し、ちゃんぽん食べて、とっちゃんに車を預けて、まずは水玉とハゼロウ見物へ。実は水玉もハゼロウも初めての見学だ。改めてみやまの底力を知る。
いつもカシラの家でガボガボと呑んでいる玉水だが、地元用に少量しか生産してないそうだ。
薄暗い蔵の中には、たくさんの瓶がずらりと棚の中に並んでいる。槽、麹室、酒母室・・・ひっそりとしているが、麹のいい匂いに包まれる。二日目、三日目に鹿島、福田をまわるが、どの酒蔵も少しずつ雰囲気が違う。玉水では現役で使われている木造の槽が印象的だった(のちに福田酒造の酒造博物館で使われなくなって展示された槽をみることになる)。
荒木製蝋は日本で三つしかない木蝋製造所のうちの一つ。なのに雰囲気は町工場みたいで、職人さんたちは黙々と作業していた(元ヤンの感じも出ていて、それがまた職人ぽさを生んでいる気がする)。謎の枡やら丼や機械がたくさんあり、いちいち何に使うのかがわからない。あのハゼの実がロウになるとは・・・どうやって思いつくのか。江戸時代にはすでに作っていたという。
時間おしおしでムツゴロウランドへ。ムツゴロウランドって名前すごい。
くもであみは何ともイージーな漁だった。もちろん、このやぐらを建てるのが大変なのだろうけど。カシラ、アルパカ、イカ、トメと網をあげるもエビだらけ。エビが商店街のガラガラクジで白玉が出た時にもらえるティッシュに見えてくる。そしてルルブが・・・えつを!商品券ゲット!みたいな気分か。その後も海外旅行をねらい続けるもティッシュを連発する皆の中で唯一ルルブは商品券をもう一度当てる。ルルブは何かがきてるようだった。
インストラクター(?)のおじさんが子供のころはくもであみがずらっと並んでいたそうだ。いい場所は取り合いで、台風でやぐらが流されてもすぐに次のやぐらがボコボコ建っていたという。夕飯のおかずとりはもっぱら子供の仕事で、学校帰りは干潟をぐねぐね歩きながら帰った、などいろいろ話してくれた。
まだまだエビがとれそうで名残惜しかったが(結局このエビは最後の日まで食料となる)、切り上げて、風呂に入ってカシラの実家へ。カシラの実家を訪れるのは初めてだ。噂で聞いていたにもかかわらず甲冑に驚く。ミツバチは夜で飛んでいなかったけど、公民館(といっても古民家のようだった)の床下の巣を見ることができた。もどかしい場所に巣を作っていて、何とかならないものか・・・。そうこうしているうちに、カシラの母がどんどん料理を作ってくれた。
カシラの家に戻ると車のヘッドライトが交換されていた。とっちゃんありがとう。
散々に呑んで次の日、これでもか、という感じで鹿島の酒蔵へ向かう。
鹿島は1日遊べそうな街だったが、駆け足でみていく。ぞろぞろと古民家や酒造の間を抜け、うなぎを食す。途中、地元のおじいさんが話しかけてくれた。この辺も昔は子供がたくさん祭りに参加して・・・といったこと感じのことを話してくれた。そして、「みぎさんへ◯※∂£▽・・・」「え??」「むこうのとおりのみぎさんへ◯※∂£▽・・・」「へえ〜・・・」全くわからない。ああそうか、ここは違う国。
鹿島を抜けて、波佐見のショッピングモール的なところ(集落が丸ごとショッピングモールに!)でご飯を食べ、林道を抜け(なぜか)、タバちゃんの家をひやかし(棚田はなかなかのたなだった)、蜂の巣箱用の底板をもらって(まさかの)、ようやく鯨飲鯨食の会に合流した時はすでに州澤さんのお話が始まっていた。
鯨類研究室の石川さんのお話は、「月とマッコウクジラ」という題で、どんなロマンチックな話かと思ったら、なんともキナ臭い話だった。鯨は何といっても世界的な「資源」で、鯨をめぐる出来事には常に政治的な思惑とセットになっていることが歴史的な出来事とともに丁寧に語られた。この間のドジョウの話といい、一つの局所的な事象から大きなストーリーを見渡す(いや、それでもドジョウは局所的か)。ミクロの視点で細かい研究をしつつ、マクロに視野を見渡す。そういう話は面白い。
講話が終わり、本番の鯨飲鯨食に取り掛かる。と、食事を初めてすぐ、向かいの整形外科医のご夫婦と宿泊の話に。「今日はどこに泊まるの?」「はい、テントで!」「いいねえ。でも、このへんテント張る場所あるのかしら」「一応はれそうな場所があると洲澤さんからきいてます。」「うちでよかったら泊まってもいいんだけど・・・」「え・・・!」
控えめな感じの申し出と、場所が少し離れていたこともあって、どうしようかと最初は戸惑ったけれど、家から見た島の写真まで見せていただき(これは見ておかなければという感じの立地だった)みんなでお世話になることになった。ああ、このパターンは・・・と、これまで野研での宿泊先の思い出がよみがえる。北海道は鷹栖の「おじさん」宅に森の幼稚園「ピッパラ」、おもちゃ屋の竹川さん宅。長野のたてしなに、風の森、安曇野のせつ宅。鹿児島のありさん・・・。ログハウス的なものを建てる人々には何か共通点がある。何というか、「気づいたら建ててしまっていた」という感じなのだ。そして、野研はよくそこに「つかまる」。その夫婦も、そもそもテントで泊まるような人しか、その家には泊めないことにしているのだという。

ロンドンに現地集合して一家でリバプールへ行くほど好きだというビートルズの曲が流れるヴォルヴォで、集落をどんどん通り過ぎ、山の中へ入っていく。一体どこへ・・・灯りもない道で突然脇道へ入り(そこは立ち入り禁止になっていた)、車は海側へ急降下し、到着して玄関に入ったメンバーから驚きの声。鹿の剥製だ。それからはひたすら家の中やら庭やらを暗い中案内してもらう。今回も完全に「つかまって」しまった・・・!そして、ここからが本当の鯨飲鯨食の会だったのだ。思えば、三日間でこの時がもっとも鯨飲鯨食の会っぽかった。ポールが好きなイカや、長野出身ヤギ専門のハンゾーがいないのが全くもったいない(夫の方はヤギの刺身が好物だそう)。すでにみんながいろいろ書いているけれど、僕的には24時を過ぎてから元老院が出てきたのが衝撃だった。
鹿島の酒蔵から始まり、波佐見と鯨飲鯨食、整形外科医の秘密基地とこれらがすべて同じ日に起こったこととは思えない。しかも、鹿島で始まり最後は鹿島出身(だった!)の整形外科医の秘密基地に泊まることになるとは。
次の日は墓石のあるカフェ的なとこでカレーを食べて、オーナーの夫の石像彫刻家の坂本さんを拾い(坂本さんに拾われ、か)、生月島の「島の館」へ。
平戸には一度だけ五島に渡るために行ったことがある。小学校を卒業した時にひとり旅をしたのだった。その時は、平戸大橋を渡って、城下町の民宿で泊まったような気がする。しかし、すでに五島に渡る船は廃船になっていて、結局佐世保まで引き返したのを覚えている。その時は全く回ることができなかった平戸。今回は生月に宮浦と端っこまで探索することができた。
島の館は思った以上に内容の多い博物館だった。館長の方のお話も興味深い。クジラの背に乗って、クジラの鼻に穴を開ける「羽差し」の本当の役割はなんなのか、形状から推測する銛の使い方の違い、肉を食べる地域食べない地域、共同体でクジラをとるのか、企業体でクジラをとるのか、そしてそれによる船の模様の違い、などなど。時間が限られていたのがやはり惜しい。大勢での「ツアー」は予定が一から十まで決められてしまいなかなか歯がゆい思いもする。これだけクジラに詳しい人がいたから聞けた話もあるのだけど。生月はまたゆっくり少人数で周りたい。潜りもかねて。
島の館を出て、キゾクカーと別れ、最西端の酒蔵を見学し、民宿で刺身と酒蔵の酒をご馳走になった。酒の席では坂本さんが、ナガランドにはまった奥さんの話をしてくれた。坂巻さんが自慢の大型スマートフォンでナガランドを検索してくれたのだが、出てきたナガランド人の写真は坂本さんにそっくりだった。
その日はテントに泊まり、翌朝民宿に泊まった坂本さんと合流して(この時最後のエビを食べた)橋でつながる最西端、宮之浦を目指す。洲澤さんたちはそこまで行ってすぐに帰ってしまったが、僕たちは漁港を散策。海はベタベタで全く波がない。釣り人がたくさんいたが、すぐにも飛び込みたい気持ちだった。
その後、志々岐神社に導かれるようにたどり着き、ムクロジの実をを拾っていると志々岐山の登山口に着いてしまった。そこにあったのは見覚えのある緑のワゴン車!坂本さんだ!しかもちょうど降りてきたところで、そろそろ出発しようかというところだった。最初の予定では志々岐山に登るつもりはなかったのだけど、坂本さんが「すぐ登れる」というので登ることに。
志々岐山は小文字山くらいの標高だったが、崖にたくさんロープが渡してあり、楽しんで登ることができた。信仰の対象だったこともあり、ところどころに何か怖ろしいことが書いてある看板があるもスルーして登る。
山頂は宮之浦から見るとロケットのようになっていて切り立っているが、そのおかげで絶景になっていた。ひょいひょいと怖ろしい崖にたつ坂巻さんは仙人のようだった。
志々岐山から降り、急いで若宮に向かう。疲れた僕を気遣って坂巻さんが途中で運転を交代してくれたのだが、そのおかげで?18時半には若宮につくことができた。若宮ではよしこさんが冷凍庫にあった謎の肉(シカ?ブタ?)でもてなしてくれた。いぼりやハンゾーが稲作のことをかぶりつきで聞いている間、88歳の新規組合員のかたとお話をした。若い時にパラグアイに行ったというおじいさん。85の時に若宮の家をついで、移住してきた。最近は竹炭を作っていて、興味ある人はきてみないかとのこと。家に一人で住んでいて、寂しいのでみんな遊びに来ていいよ、酒もあるし、とのことだった。若宮は名残惜しかったが、疲れていたことと次の日の授業のこともあってキゾクカーで家に帰る。
次の日、やっと通常営業に戻ったと思いきや、授業前に分蜂の知らせを受ける!そうか、今はそういう時期だった。授業を中断して分蜂をみにいくと、実はW分蜂だったということで、テラスイボリモコツルコが必死に蜂を運んでいた。
授業後に蜂を眺め、夜は大學堂でオルガン搬入、坂巻さんと最後の酒を交わし・・・と思ったらいつのまにか大學堂で呑み明かすことになって、ツルコ坂巻アルパカというなかなかないメンバーで呑んだ。坂巻さんが酒をどんどんついで、ホリさんが持って来た古酒は結局三本とも飲みきってしまった。翌朝、坂巻さんに旦過市場と大学を案内し、坂巻さんはテイクアウト大學丼を持って北海道へと帰って行った。後半は坂巻さん率の高い一週間だった(坂巻さんはひょうひょうとして裏表ない感じの面白いヒゲの方であった)。
さらにこの後の金曜には北方シネマもあり、内容の濃い一週間だった。
ツアー部分もよかったのだけど、予定の決まっていなかった宿泊や平戸からの帰りの一日の方が、スリリングで、決められた場所を観るのとは違う楽しさがある。誰も先導していないのにも関わらず、「はまった」時のフィールドワークは何かに導かれていくようだ。この感覚がフィールドワークの醍醐味かもしれない。