2017年6月22日木曜日

旅と音楽


チョコリンガーズが大學堂にやってきたのは、かれこれ・・何年前だろう?当時、あゆむくんと修平さんは京都からヒッチハイクで来た。ジンバブエでムビラという親指ピアノの楽器の修行をして、ヒッチハイクで演奏の旅をしているという二人は、大學堂をやっている大学生とほぼ変わらない年のころの若者だった。

そのときにきいたボロ屋の市場にひびくムビラの音は、やさしい雨の音と混ざって、地下世界にどんどん染み入っていくみたいであった。実際には雨は降っていなかったかもしれない。しかし、たしかに梅雨のモワモワとした濡れた空気の感じがあったことと、ピーコとユーケーのイカしたデザインのフライヤーの絵が、ムビラの音をきくと今もはっきりと思い出される。

こんな素敵なチョコリンガーズには、またすぐに大學堂に来てもらおう!と、みんな意気込んでいたけれども、北九州での再会にはこんなに時間がたつことになるとは。


最初、大介からシンボッティ・ツアーを呼ぶと聞いて、会場は大學堂を想像していた。ほどなくして、ムビラにふさわしい野外を予定していると聞き、それは最高のセッティングになるだろうと思った。

いい場所を探して、野営をすることができる。そして翌日には跡形もなく立ち去るのだ。これぞスタードーム・ノマドの醍醐味だ。目の前には海(もうちょっと魚のいる海だったらもっと最高だったけど・・)、スタードーム、そして焚火。離合集散と秘密儀礼。

民族としては、一言でこの違和感は言えないけれども、昨今「ぼっちのすすめ」の本が売れたり、「観光客の哲学」が注目されたりと、汲めども尽きない消費の欲望を軸にした自由は、莫大なエネルギーを食ってなお空虚なのではないかと思えてくるのだ。

「共感」の感情は人類に根源的だからといって、そのセッティングはカンタンではないのだ。だから文化的多様性が星の数ほどある。作法において、共通するエッセンスを抜いて分析することはできるけど、環境と技術、歴史と文化の文脈が合わさると組み合わせは無数になる。そしてその多くは言語などと同じく、今日もどこかで絶滅に瀕しているのだろう。

人類学ゼミよ、ありがとう。
これまでの最先端の民族の研究があますことなく表現された場に参加することができたよ。


ところで、私は今年3月に生態人類学会に参加したときに、大阪であった修平さんのムビラライブに足を運んだのだ。そのとき、修平さんはシンボッティの音の凄さについて興奮気味にこう語った。野球で例えるなら、シンボッティがプロ野球のすごい選手だとしたら、僕は野球がまだできない幼稚園の子どもくらいのもの、いやそれもまだ違う、僕をよく言い過ぎだ、うーんと、地面に落ちている砂粒の、その砂についている小さな微生物ぐらいのもの、それが僕・・・そのくらいシンボッティと僕とのあいだには差がある!

えっ、そんなに!!

螺旋階段を一定ペースで下るように落ちていきながらその言葉を反芻したが、私にはわからないのであった。すぐに反芻する言葉は別のものになって、いろいろが粒のように想起されては消えていった。座っている砂のひとつひとつはかつて生きていた海の生物の死骸の粒粒で、粒粒をパズルのように綴ったムビラの音にどんどんうまく合わさっていくようで、とても気持ちよかった。


おまけ
かつて「恋人たちの聖地」になる前のはまゆう公園では、鼻笛おじさんが鼻笛をぷーぷー吹いていた。

てくすと

昨晩はMovie Night

作品は「ちいさな哲学者たち」

パリ郊外の幼稚園のあるクラスで2年間行われた哲学の授業をおったドキュメンタリー。

映画の中ではちいさな哲学者たちが真摯に難題に向き合う。

「愛」とは「大人」とは…2年間を通じて、まさに知を愛する過程が描かれている。

大きくなると、なかなかどうしてこういう難題に素直に向き合えなくなったりする。

さまざまな刺激的なものがすぐに手に入ってしまう世の中で、私たちは消費の達人になっていく。

消費は簡単で、楽しい。

映画の中で、ある園児が親に物乞いをする人になぜなにも与えないのかと聞いたとき、言った。「どうでもいい、遅れてしまう」

消費は簡単で、楽しい。そして時々、時間が足りなくなる。

与えられ、受け入れ、与えられ…

有限な私たちの時間が誰かわからない人たちによって与えられたもので消費されていく。

そういえば、今日、会議のとき消費と創造の話がでた。

どんなにへたっぴでも、消費するより創造する人間であること。

それが野研の真髄であり、私たちの原動力らしい。

まだまだぺーぺーな私はその真髄に小指でさえ届いているのだろうか。

そういえば、文章を書くっていうのも創造だ。

誰から与えられるわけでもなく、自ら欲して、こうしてテクストを織る。


うん、消費の達人より創造の達人の方がずっと楽しそうだ。






想起させること

 魚のいない海には、こんなにも魚がいないのか。
これまで魚のいる海にばかり潜っていたことが、よくわかった。3人がフル装備で潜ってメバル1匹。恋人達の聖地の先に広がるのは、死の海だった。
 変化のない浜を泳ぎ続けて、体に塩と疲れが残され、さらに予定外の食糧難となる。いつか来た国民宿舎で塩と疲れをとり、いつか行ったちゃんぽん屋を目指す途中、謎の地鶏屋へと吸い込まれた。1000円で一時間地鶏食べ放題という見たことのない料金体系の店だった。注文後45分ほどして最初の肉が来た。一時間を無視して東雲さんとどんどん鶏肉を注文し、予想外に満腹となった。そして、浜に戻るとさらに大量のビワが・・・。儀礼を前に胃には食べ物がたまっていったのであった。

 到着してすぐ、シンボッティは海をみていた。60代になって初めてみる(?)海はどんなものなのだろう。一人で海をみているシンボッティにビワを渡しに行くと、「初めて食べる果物だ」と喜んでくれた。
 きのこや大介がするムビラの話を何度も聞いていた。「チョコリンガーズは面白い人たちで、ヒッチハイクで小倉にきた」「ムビラは大學堂のシャッターに共鳴して、トリップ感を生み出した。不思議な音楽だった。」話やCDでしかきけなかったその音を、ようやくきくことができる。それも、いきなり彼らの師匠の音を。海とスタードームと焚き火のもとで。
 ちいさな無数の貝殻の上でスタードームに包まれ、ムビラの音はからだ中に充満していった。ムビラの機能は「Remind(想起させること)」。なんどもなんども同じ旋律を繰り返すようなのに、一度として同じ瞬間がない。儀礼をすすめるにつれ、螺旋階段を登るような降りるような不思議な感覚になった。ニューギニアで歩き回ってヘトヘトになった一日の最後に、ショーティの話を半分眠りながらきいていた時のことを思い出した。ショーティの話は、きいているその話の中へと溶けていくようだった。想起とは経験の中へと溶けていくような体験なのかもしれない。
 儀礼が終わって、シンボッティと話した。僕のジンバブエのイメージはハイパーインフレぐらいしかなかったけれど、シンボッティの話すジンバブエはどこでも焚き火ができる、トウモロコシ畑の広がる大地だった。

2017年6月21日水曜日

mbira

揚々用意

茂み繁り吹き

儀礼まえ、儀礼

地平な儀礼

私的に儀礼

夏のはま鳴るムビラ





熱い太陽が容赦なく照りつける海辺にスタードームを建てる。

スタードームを建てるとスタードームが出来上がる。

スタードームが出来上がると演奏者も聴衆も集まり、儀式を始める準備が整った。

儀式が始まる準備が整ったら演奏者のシンボッティ師匠とシュウヘイ弟子によるアフリカのジンバブエに伝統的に残る楽器「ムビラ」の演奏が始まった。

「ムビラ」の演奏が始まったら聞こえてくるのはムビラの言葉では表現できない不可思議な音と波の音だけが響き、スタードームの中は独特な雰囲気に包まれる。

包まれるというよりこちらからムビラの音の中に入り込んでいくという感覚。

感覚は研ぎすまされ、周囲の音も気にならないほど聴覚はムビラの音だけに集中する。

音だけに集中すると次第に意識が現実の世界を離れるような気がして、気づいたら曲が終わっている。

曲が終わっている・・・・、いつの間に。

いつの間にか夕日も沈み、火の灯りだけが見えるようになった頃、演奏も終わり、現実の世界に一気に引き戻された。

引き戻されたらいよいよ演奏者と聴衆が一同に宴を始め、美味しい食材に満足しました。



自ら入り込んでいってしまうような音楽、素晴らしかった。

MBIRA NIGHT

秘密の入り江で秘密の儀式

太陽信仰か、音楽信仰か

夜も更け、空間と溶けていく人々

 儀式は一晩中続く
  
下界でも秘密の儀式をしていた
供儀を用いて繁栄を得るのだ

ドームを作って準備してくれた野犬のみなさま、お誘いくださった竹川大介先生、ありがとうございました。とても貴重な経験でした。
車で送ってくれたうぃらぽんさん、ありがとうございました。

さようなら西洋の音楽よ

民族音楽はとても好きだ。

西洋音楽には見受けられない、土着の独特で至極複雑なリズム、心地よく或いはどこか未知の空間に飛んでいってしまいそうなチューニング、どれをとっても非常に非凡な、そしてその場その瞬間でしか生まれない、味わえない空間に自分が取り込まれていくあの感覚がとても気持ちいいからだ。

とりわけアフリカのリズムはとても心地よいのに、理論的に聞くととても複雑で、そして正確なものであるため、とても勉強になる。

その感覚に陥ることを夢見て今回参加したわけだが、シンボッティの音が振動として伝わるや否や、僕のその考えはとても浅薄なものだと気づいた。




「これはライブではなく、儀式である」

と頑なに言い張るシンボッティ。

これまでほとんど娯楽として音楽を楽しんでいた僕にはあまりに新しい感覚である。

なに。儀式って。

なんだか難しい心持ちで1曲目を迎えたわけだが、次第にわかってきた。

“なにかと一つになっている”

それは自分自身でもあるし、シンボッティと、ムビラと、或いは地球そのものと。


気が付けば身体が揺れていた。
音の振幅に、それとも後ろの波の振動に、なのかはハッキリとわかる術は無いが、とにかく揺れているというより、揺らされている様な、そんな感覚。


うーん。ヨカホエ。


シンボッティヨカホエ。